一人で会社を経営している方や、フリーランスで働いている方と話すと、CRMを使っていない人が意外と多いです。理由を聞くと、だいたい同じ答えが返ってきます。「入力する時間がもったいない」「誰かに共有するわけでもないから、ExcelかNotionで十分」。
この感覚は、間違っていないと思います。CRMという仕組みは、そもそも複数人で情報を共有するために作られてきました。営業担当が入力し、上司が確認し、マーケティングが参照する。共有する相手がいなければ、入力の手間だけが残ります。
そのCRMの前提そのものに手を入れる動きが、8月に出てきました。HubSpotの共同創業者兼CTOであるDharmesh Shah氏が、YouSpotという新しいCRMを公開しています。サイトには「The AI-native Solo CRM built just for you.(あなたのためだけに作られた、AIネイティブなひとり用CRM)」と書かれています。
誤解しないよう補足しておくと、これはHubSpot本体の新製品ではありません。社内のイノベーション組織「HubSpot Next」のプロダクトという位置づけで、対象は「VC資金を入れた営業チームではなく、ソロの事業者」だとGo Big Newsの記事で紹介されています。現在はプライベートベータで、ウェイトリスト経由の登録制です。通常は月25ドルですが、先着1,000席に限って月1ドルで提供するとのことでした。
ここで気になるのは、なぜHubSpotのCTOが、わざわざひとり会社向けのCRMを作ったのか、ということです。
私は、これは単なる余興ではなく、CRMの入力コストという古い問題への回答なのだと考えています。従来のCRMは、複数人で共有する台帳として設計されてきました。共有相手がいないソロの事業者にとって、その入力コストは割に合いません。だからこそ、これまでソロ向けのCRMは、あまり成立してきませんでした。
裏返せば、AIが入力そのものを肩代わりできるなら、この前提は変わります。共有する相手がいなくても、AIが文脈を集めて整理してくれるなら、入力の手間というハードルは下がる。ソロにもCRMが成立する余地が出てくるわけです。
YouSpotのサイトには、もう一つ印象的な言葉があります。「A self-building second brain for all your customer context.(顧客に関するすべての文脈のために、自分で育つ第二の脳)」。
Dharmesh氏は8月26日付のニュースレター記事で、この考え方の背景を説明しています。趣旨はこうです。AIモデルが持つ知識は「凍結された知識」であり、そのままでは今の自分の状況を知りません。人間もカレンダーやToDoリスト、メモといった外部ツールに文脈を預けることで、初めて仕事を回せている。AIも同じで、「生きた文脈」に接続されて初めて実力を発揮する、という考え方です。
この発想をCRMに当てはめると、価値の重心が動きます。これまでのCRMは、項目が正しく入力され、きれいに正規化されたデータベースであることが評価軸でした。ところが、文脈を自動で集めて育てる第二の脳が主役になると、入力の主語が人からシステムに変わります。そうなると評価軸も変わるはずです。項目を網羅しているかではなく、その文脈がどれだけ新しく保たれているか、そしてAIが読める形になっているか。ここが問われるようになるのだと思います。
ただ、良い話だけではありません。Dharmesh氏の記事は、AIが自動保存する記憶をユーザーが編集できる点にも触れています。この一文は、地味ですが実務的に重要です。
自動で貯まる文脈は、正しいまま貯まるとは限りません。聞き間違い、古い情報の残留、文脈の取り違え。人が手で入力していた時代なら、間違いに気づいた人がその場で直せました。AIが代わりに入力する時代になると、間違いに気づく人がそもそも減ります。
だからこそ、訂正や削除の経路が製品として最初から用意されているかどうかは、これからCRMを選ぶときの実務的な確認項目になるはずです。便利さの前に、直せるかどうかを確認しておく。地味ですが、これを後回しにすると、あとで文脈そのものを信用できなくなります。
YouSpotは、ひとり会社という限られた対象に向けた実験です。ですが、複数人でHubSpotなどのCRMを使っている企業にとっても、無関係な話ではないと思います。
YouSpotが問い直したのは、「入力を人にお願いし続ける」という前提そのものです。自社のCRM運用は、今も入力を人にお願いし続ける前提のまま設計されていないでしょうか。営業担当が商談メモを書き忘れる、更新が滞る、といった問題を、運用ルールの徹底だけで解決しようとしていないでしょうか。
月1ドルという価格についても、一つだけ触れておきます。これは収益を狙った価格ではなく、利用のログと学習量を先に取りに行くための設計だと読めます。HubSpot本体の戦略にどうつながるのか、既存製品にどう影響するのかは、現時点では公表されていません。ここは推測で断定せず、今後の発表を見ていきたいと思います。
最後に、一つだけ問いを置いておきます。自社のCRMの中で、「これは本当に人が入力しなければならない項目だろうか」と、一度立ち止まって見直してみる項目はないでしょうか。その項目こそ、次にAIへ渡していく候補なのだと思います。