AIに文章やたたき台を頼んでいるのに、返ってくるものがどこか当たり障りなく感じる。この感覚の原因は、モデルの性能よりも「こちらが渡している前提の量」にあります。
2026年9月16日から18日にボストンで開催されたHubSpotの年次イベントUNBOUND 2026(15年続いた「INBOUND」からの改称)では、製品発表のほぼすべてが「コンテキスト(文脈)」という一語に収束していました。本記事では、そこで語られたコンテキストの定義と、HubSpotのAgent Hubの[コンテキスト]タブに自社の前提を置くまでの具体的な手順を整理します。
会場はほぼAI一色でした。展示ブースの説明も、セッションのタイトルも、AIかエージェントの話です。当社のHubSpotソリューションディレクターが参加したセッション15本のうち、11本がAI関連でした。
ただ、印象に残ったのは新機能の数ではありません。どのセッションも、話の最後は同じ一語に行き着いていました。コンテキスト、つまり文脈です。
HubSpotのCMOは、会場にこう問いかけていました。「今週、一目でAIが書いたと分かるコンテンツを見た人は?」。たくさんの手が挙がります。
同じツール、似たようなプロンプト、同じモデル。誰もが同じものを使えるようになった結果、どこを見ても同じ顔をしたものが並ぶ。登壇者はこの状態を「同じさの海(a sea of sameness)」と呼んでいました。
理由は身も蓋もないものでした。AIにセンスはなく、学習したものの中央値を返してくる。だから平均的で、当たり障りがない。心当たりのある方は少なくないはずです。
「AI Broke The Old Marketing Playbook」のセッションより。「センスをAIに任せきりにするな。代わりに、自分たちのセンスをAIに教え込め」というスライドです
では何を足せばいいのか。ここでHubSpotが持ち出したのがコンテキストという言葉でした。定義が特徴的です。「自社・顧客・チームに関する動的な知識(Context is the dynamic knowledge about your business, your customers and your team.)」と説明されていました。一度書いて棚にしまう資料ではなく、日々更新されていく最新の情報という意味です。
中身は3層に整理されていました。
この3層は、後述するHubSpotの画面構成にもそのまま対応しています。
HubSpot Japan主催のフォローアップセッションで映されたスライド。「土台(Foundations)から先に築く」という文脈で、コンテキストの3層が示されていました
同じスライドの最下部に、この話を最も短くまとめた一文がありました。
「コンテキストが不十分なAIは、AIを使わないよりも悪い結果を出す(AI with bad context is worse than no AI.)」
AIは情報が足りないまま、それらしい文章だけを出してきます。読み手には判断材料が足りていないことが見えないため、誤りを含んだ出力がそのまま下流に流れていく。だから「使わないより悪い」という評価になります。
この考え方は、HubSpot固有の主張ではありません。Anthropicもコンテキストエンジニアリングに関する技術解説で、プロンプトの書き方を工夫する段階から「どのコンテキストの構成がモデルの望ましい振る舞いを生むか」という問いへ焦点が移ってきていると整理しています。プロンプトの一文を磨くより、渡す前提そのものを設計するほうが効果が大きい、という方向です。
社内の情報をAIから引けるようにするサービス、GleanのCEOがセッションで語っていた内容が示唆的でした。社内のデータと文書を全部集めても、その会社が持っている知見の1〜2割にしかならない。残りは日々のやり取りの中にある、という話です(UNBOUND 2026のセッション内での発言であり、出典となる公開データは確認できていません)。
Slackで誰かの質問に答えた一言。見積もりを承認したときに添えたメモ。商談のあとの雑談。その会社で何が良しとされているかは、だいたいそのあたりに出ています。資料に残っているのは決まったあとの結論だけで、どう迷ってなぜそちらを選んだのかは、どこにも書かれていません。
当社が売上100億円規模以上の製造業・情報通信業のCRM導入を支援する際、この「文書になっていない知見」が最初の障壁になります。営業はExcel、マーケティングはメール配信中心という分断された状態では、「うちが好んで使う言い方」すら部署ごとに違います。コンテキストを1箇所に集める作業は、実質的にはどの部署の表現を全社の正とするかを決める合意形成です。入力作業ではなくガバナンスの論点として扱わないと、各部署が自分の言い方を書き足して矛盾した前提が積み上がります。
大がかりな仕組みは要りません。AIに頼むときの前段に貼り付ける前提メモを、1枚用意するところから始められます。
このメモを足すだけで、返ってくるたたき台をゼロから書き直す回数は目に見えて減ります。
大事なのは、置きっぱなしにしないことです。新しい失注の理由が分かったとき、お客さまから思わぬ褒め方をされたとき。そのたびに1行足す。これが先ほどの「動く知識」にあたります。
HubSpot内のAIに頼むなら、このメモを毎回貼る必要はありません。前提をためておく置き場がContext Homeとして用意されました。画面では[その他]→[エージェント]→[Agent Hub]と進み、[コンテキスト]タブを開きます。
新しく作ったエージェントは、指示を1行も書かないうちからこの前提を読み込んで動き出します(エージェント作成ツール自体の挙動はUNBOUND 2026の速報記事で解説しています)。裏を返すと、ここが空だったり古かったりすれば、どのエージェントも同じところでずれます。
先ほどの4項目は、おおよそ次の場所に入ります。
Agent Hubの[コンテキスト]タブ。左側に[要約][ビジネス][顧客][チームとプロセス][個人][カスタム][推奨事項][ナレッジ保管庫]が並びます
この画面でまず見るべきは「コンテキストの網羅度」です。上の画面では39%と表示され、[詳細]を開くと項目ごとに何が欠けているかが具体的に出てきます。「重要なビジネス情報が不足しています」「営業手法が定義されていません」「Eメールパーソナリティーが定義されていません」といった粒度です。
最初の作業は、一から入力することではありません。Context HomeにはHubSpotが自社サイトやポータルのデータから読み取った内容が初期値として入っているため、その内容が自社の認識と合っているかを確かめるところから始めます。各項目の意味や初期値の確認方法は、Agent HubとContext Homeの解説記事で詳しく扱っています。
HubSpotの公式ナレッジベースによれば、コンテキストの詳細のほとんどはスーパー管理者(またはパートナー管理者)の権限がないと更新できません。例外として、Eメールパーソナリティの作成と[チームとプロセス]のユーザープロフィールは全ユーザーが自分の分を編集でき、製品・サービスのセクションは見込み客発掘エージェント管理者の権限でも更新できます。管理者でない場合は、まず自分の書き方の癖を入れられるこの範囲から着手するのが現実的です。
なお金融・保険業のように表現の統制が求められる業種では、この権限設計そのものが実務上の要点になります。使ってよい言い方と避ける言い方を[ビジネス]のブランドキットに集約し、編集をスーパー管理者に限定しておくと、AI出力の表現根拠がどこに由来するかを1箇所で説明できる状態になります。全社でAIを使い始める前に、Agent Hub側でこの統制を先に作っておくかどうかで、後からの監査対応の負荷が変わります。
平均点の答えしか返ってこない。これはAIの性能というより、こちらが渡している情報の量の問題でした。UNBOUND 2026の発表が「コンテキストこそが競争優位」という一点に集約されていたのも、同じ理由です。
置き場ができても、中身を書くのは私たちの側です。まずは前提メモを1枚。HubSpotをお使いなら、[コンテキスト]タブを開いて、いま何が入っているかを見るところから始めてみてはいかがでしょうか。
コンテキストはビジネスに関する基本情報で、HubSpot内の複数のAIツール全体に自動的に適用されます。一方ナレッジ保管庫は特定の用途向けの情報セットで、プロジェクトやエージェントに手動で追加して使います。全社共通の前提はコンテキスト、個別案件やエージェント固有の資料はナレッジ保管庫、という使い分けになります。
項目によって異なります。ほとんどの詳細更新にはスーパー管理者(またはパートナー管理者)の権限が必要ですが、Eメールパーソナリティの作成と[チームとプロセス]のユーザープロフィールは全ユーザーが自分の分を編集できます。製品・サービスのセクションは見込み客発掘エージェント管理者の権限でも更新可能です。
定期的な棚卸しより、事実が増えたタイミングで1行追記する運用のほうが実態に合います。失注理由が判明したとき、お客さまから想定外の評価をもらったとき、提案の勝ち筋が変わったとき。「動く知識」という定義は、この更新を前提にしたものです。更新が止まった前提は、古い判断基準をAIに再生産させる原因になります。