「AIで仕事は楽になるはずだったのに、作業が3倍になった気がする」。この文章は、2026年9月16日、ボストンで開催された「UNBOUND 2026」の初日、オープニング基調講演を聴いた直後に書いています。UNBOUNDは、これまで「INBOUND」として開催されてきたHubSpotの年次カンファレンスが、今回から改称して初めて開かれたものです。
基調講演の冒頭、CEOのヤミニ・ランガン氏が紹介したのは、数週間前に旧知のマーケティング責任者と交わした会話でした。思考を書き出し、プロンプトを作り、結果を検証し、直して、また回す。1日の終わりには「急いでもっとAIを学べ」というフルタイムの仕事がもうひとつ増えたような感覚になり、どれだけやっても遅れている気がする。そう打ち明けられた、という話です。
この感覚、日本の現場でもよく耳にします。ツールは増えた、プロンプトも書けるようになった、それなのに手応えがない。私も同じ相談を、経営者やマーケティング責任者の方からたびたび受けます。
「maxing」という、やりすぎの局面
ランガン氏は、この局面に名前をつけていました。「maxing(やりすぎ)フェーズ」です。ツールを増やし、エージェントを増やし、ユースケースを増やし、トークンを増やす。もっと働けば、もっと良くなるはずだと信じて、量を積み増していく状態です。
彼女は「もっと働くことは、うまくいっていない」と言い切ります。たとえとして挙げていたのが、1950年代に数千の靴店に置かれていた靴合わせ用のフルオロスコープでした。足のX線を見ながら靴を合わせられる、当時としては最先端の装置です。ただし放射線を浴びる。もうひとつは、卵の残数を教えてくれる70ドルのスマート卵トレー。どちらも、最先端であることと、その場に必要かどうかは別問題だった例です。いま起きているのは、エージェントmaxing、PoC(概念実証)maxing、トークンmaxingなのだと、彼女は続けました。
6,000社調査でわかった6%という数字
基調講演では、複数業界の顧客・見込み客6,000社を調査した結果が示されました。AIを利用している企業は90%にのぼる一方、変革的な成果を得ているのはわずか6%。その6%は、売上目標を達成する確率が4倍、効率目標を達成する確率が3倍だったといいます。
9割が使っていて、成果が出ているのは1割にも満たない。ここに、分かれ目を探る価値があるのだと思います。
成果を出す企業と出さない企業の違い
ユースケースは少ないほうがいい
市場活動(GTM)の成果は10年前から変わらず、「需要をつくる」「案件を勝ち取る」「顧客を喜ばせる」の3つだけだそうです。カスタマージャーニー全体で50のユースケースを追跡したところ、成果上位企業がやっているのは平均4〜5個でした。需要創出は17個中4個、受注は18個中5個、顧客成功は15個中4個。多くをやっているのではなく、少ないものを非常にうまくやっている、ということです。
人気とインパクトは逆相関する
50余りのユースケースを、横軸に人気度、縦軸にインパクトで散布図にすると、人気が上がるほどインパクトから遠ざかる方向に傾いたそうです。人気だがインパクトが低いのは、コンテンツ生成、AIでのメール作成、AIでの会議準備。共通するのは「生成タスク」で、自社の文脈がなければ、競合が同じプロンプトで作れるものと変わりません。
逆にインパクトが高く、実施している企業が少ないのは、AIでキャンペーンを分析する、パイプラインの優先順位をつける、顧客フィードバックを分析する、といった用途です。いずれも自社のデータがなければ実行そのものができない。だから競合にコピーされないのだと、講演は説明していました。「あなたのデータ、あなたのコンテキスト、ゆえにあなたの優位性」という言葉が、そのまま印象に残っています。
文脈という土台。悪い文脈はAIなしより悪い
ここでいう文脈(コンテキスト)とは、自社のビジネス・顧客・チームに関する動的な知識のことです。ランガン氏は、新人営業の育て方を例に挙げていました。新人に必要なのは全顧客データの入ったデータベースではなく、マネージャーが隣に座って、誰が何をなぜ買うのか、チームはどう動くのか、何に承認が要るのか、トップ営業は何をしているのかを語ってくれることだ、と。
必要な文脈は3層あるとされていました。ビジネス(ブランド・トーン・製品・ポジショニング)、顧客(全チャネルの会話・理想の顧客像・購買シグナル)、チーム(役割と目標・プロセス・承認・方法論)です。良い文脈が揃うと、MQL(見込み客)の生成が200%超増加し、受注数・商談設定数も伸びたといいます。
一方でランガン氏が2度繰り返した言葉があります。「悪いコンテキストを伴うAIは、AIなしより悪い」。人間なら情報の古さを自分で補正できますが、AIはできません。カタログにない製品を勧める、ARR(年間経常収益)の定義を誤ってパイプラインを分析する、先週異動した人に承認を回す。こうした誤りが実際に起きている、という指摘でした。
人に対して意図的である
AI関連職は年3〜5倍で増えているそうです。AIスペシャリスト、GTMエンジニア、ガバナンス専門家。新しい技術が新しい職種を生むのは、いつの時代も起きることです。ただ今回違うのは、インターネットが情報へのアクセスを民主化したように、AIが「つくることへのアクセス」を民主化している点だと、講演は指摘していました。アイデアからプロトタイプまでの距離が消え、マーケター・営業・サービスの担当者が、すでにつくり手になっているというのです。
ただし、「誰でも何でも作れることは、全員が何でも作るべきという意味ではない」ともランガン氏は釘を刺していました。作ることの床は下がったが、考えることの天井は上がった。難しいのはもう作ることではなく、何を作るかを決め、それが良いかを判断し、モデルが自信たっぷりに返した答えが本当に自社にとって正しいかを問うことなのだと思います。
製品側の答え合わせ
基調講演の後半、CPTOのダンカン・レノックス氏による製品発表は、この「文脈が土台」という主張を、そのまま製品構成に落としたものでした。通話・メール・会議が自動で記録され、商談ステージや次のステップが更新される自己更新型のCRM。顧客レコードと「自社を自社たらしめるすべて」を一体化したGrowth Context。文脈の完全度をスコアリングし、埋めるべきギャップを提示する管理画面Context Home(何を含め、何を更新するかを決めるのは利用者側です)。行動するように作り直されたBreeze Assistant。需要創出の作業場としてのMarketing Studio。言葉で説明するだけでカスタムエージェントを作れるAgent Builder。
「CRMを人が更新するのではなく、CRMが人を更新する」。会場で示されたこの問いの立て方が、印象に残りました。なお、OpenAIとの提携(AI Growth Bundle、ChatGPT広告との統合)も講演で言及されましたが、これは口頭発表の段階で、提供条件・対象国・期間は公式ページでの確認が必要な状態です。
顧客パネルから見えた実務のポイント
登壇した顧客企業からは、率直な話が続きました。ある企業は、営業とマーケティングで別々のCRMを2つ持っていた状態を解消し、マーケティング・営業・オンボーディング・カスタマーサクセス・サポート・請求まで、顧客ジャーニーの100%をHubSpotに集約したといいます。別の登壇者はこう表現していました。「誰も使わない強力なプラットフォームは、ただデータを積み上げるだけで、AIには勝ち目がない」。
成果の例として、商談設定率が前年比で11%から43%になった企業、ファネル上流のMQLからSQL(商談化リード)への転換率が数か月で2.8倍になった企業がありました。いずれも「架電を増やす」のではなく、購買インテントのある相手を特定し、自社データで独自のエンゲージメントスコアを作り、そこにAIを接続する順序を取っていたそうです。
失敗の共有も率直でした。あるプロスペクティング用エージェントが誤った企業をターゲットにしてしまい、非適格リードが出てカスタマーサクセスチームに迷惑をかけた。データベースに鮮度を失ったコンテンツが残っていた。こうした話をしていたのは、売上約5,000万ドルの業種特化ソフトウェア企業、30人規模の代理店、売上17億ドル規模のエンタープライズ企業でした。結論は共通していて、「組織に人を採用するのと同じようにAIエージェントを訓練し、組織とともに成長させる必要がある」「手綱は緩めたが、ハンドルから完全に手を離したことはない」というものでした。
月曜日に、自分へ問う3つ
基調講演の締めくくりで示されていた問いを、そのまま置いておきます。
ひとつ、自分が出したい成果が何かを分かっているか。
ふたつ、それを実現する文脈とデータの土台があるか。
みっつ、AIとともに考え、作れる人材がいるか。
そのうえで、日本の読者に向けてもうひとつだけ問いを重ねたいと思います。次のツールを増やす前に、いま自社が走らせているAIの使い道のうち、自社のデータがないと成立しないものは、いくつあるでしょうか。この数を数えてみることが、6%側に立つための、いちばん地味で確実な一歩なのではないでしょうか。
一次ソースは以下の2本です。UNBOUND 2026公式サイト、基調講演の動画。